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2015年07月21日

万斛西 東区 先代西古連 二段欄間の二俣型一層唐破風大屋台




万斛西 東区万斛西

二俣型一層唐破風大屋台
大工不詳
明治中期建造?




万斛西の大屋台は昭和59年まで二俣西古連が曳いていた。

照り起りが美しい曲線基調の唐破風、二段欄間、細長い脇障子、柱間(芯芯)四尺五寸と細身の屋台、春慶塗(現在はペンキ塗されている)と典型的な二俣型一層唐破風大屋台の特徴を備えている。
・・・にもかかわらず西古連には、この先代屋台を掛塚から買ってきたという説がある。




その破風は明治三十二年に二俣大工平山幸太郎棟梁が完成させた古城連の破風に非常によく似ている。


水ヶ谷連(先代諏訪、旭)
金勢社(先代叉水)
吾妻連
有聲舎(栄林寺御用大工渋谷一門が建造した二俣型大屋台)

唐破風屋台の二段欄間は、明治前期~中期建造と推測されている二俣の叉水、諏訪、西古、吾妻と、やはり同時代建造の犬居の龍勢社、鷹尾連、そして昭和初期に犬居町の屋台を二俣大工が建造した有聲舎くらいしか見当たらない。
当時は天竜川水運で結ばれていた二俣と犬居に特化した仕様と考えて良いように思う。

問題はこれらの二段欄間の屋台が昭和期の有聲舎を除き、「明治年間建造」と伝わるのみで正確な建造時期や大工の名前など一切記録に残っていないことである。



然し、光明山秋葉山周辺には良質の欅材があり、超一級の宮大工が存在し、既に江戸末期には金屋台や三階屋台を有するだけの経済力が二俣にあったのは疑いようのない事実だろう。



先代西古連はおそらく明治二十~三十年代頃に二俣で建造されたのだろう。
南がく連が金屋台を手放した頃に吾妻、西古が独立したとすれば、明治二十五年頃の建造で、その前の金屋台は掛塚から買った・・・という話が後世に間違って伝わった可能性もあるのではないか?

浜松市以外であれば、おそらく文化財レベルの屋台である。
この様な屋台をどう保存していくか?考えなければならないだろう。
  


Posted by 天竜北遠のお祭りを応援する會 at 07:00Comments(0)東区

2015年07月20日

西川連 大嶺西川 二俣型一層唐破風大屋台





西川連 龍山町大嶺西川

二俣型一層唐破風大屋台
大工・建造年代不詳




建造年代不詳の屋台は、地元の口伝では掛塚で建造されたと云われていますが・・・
丸みを帯びた唐破風、箕甲が朱、葺地が黒、裏甲が金、破風板が黒、茨が金という塗り分け、欅材を各所に用いた春慶塗の仕上げなど二俣型一層唐破風大屋台の様式が採用されています。

破風の形状は大正十年に二俣大工平山安太郎が建造した諏訪連の破風形状にかなり似ているのではないでしょうか。



西川連會所にある一枚の写真から、この屋台が昭和二十五年に西川に存在したことは間違いないようです。



屋台は駒寄も、高欄下縁葛を支える組子も無く、非常にシンプルな作りとなっています。腰板の額縁は大正以前の二俣屋台とは異なり(現存する二俣型一層唐破風大屋台で最古と推測されている)水ヶ谷連同様飾り気のないものです。
屋根などは修理されているようですが、もしかしたら古い時代の二俣の屋台であったかもしれません・・・



雪洞に記された白山神社というのは龍山町広域の鎮守である瀬尻白山神社のことだそうで、自慢の大屋台が曳き廻されるお祭りは8月15,16日の西川津島神社祭典の日になります。



西川津島神社
  


Posted by 天竜北遠のお祭りを応援する會 at 12:00Comments(0)天竜区龍山町

2015年07月19日

旧道連 大嶺旧道 美しい渓谷白倉川沿いを曳かれる屋台



旧道連 龍山町大嶺旧道

二階屋台
大工・建造年代不詳



旧道連の屋台は元々一層唐破風屋台であったものに二階部分を増築したのだという。

よく見ると土台は一段と古そうなので、長い歴史がありそうだ。



西川津島神社祭典(毎年8月15・16日)の三台ある屋台のうち、新道連は既に曳き廻しを休止しているが、西川連と旧道連の二台同時に曳くのは15日のみで16日は西川連旧道連一緒になって一台を新道まで曳いていくとのこと。住民の減少は著しいが、それでも子供から大人まで一緒になって踊るなど楽しいお祭りである。



峰之沢鉱山全盛期には龍山町の経済も順風満帆であった。秋葉古道(塩の道)が貫く下平山の山の斜面に所狭しと住宅が並んでいる。



西川は御油~熊経由の秋葉道が通じ、古くから宿場として賑わったという。かつては芸妓衆もいたようだ。



天竜川との合流点近くまで、美しく神秘的な渓谷美を魅せる白倉川

こんな場所で育った人達は幸せだったろうし、蓋し今は強い望郷の念に駆られているのではないだろうか・・・

祭りの維持は、集落の生命線でもあるかもしれない。
  


Posted by 天竜北遠のお祭りを応援する會 at 12:00Comments(0)天竜区龍山町

2015年07月18日

新道連 大嶺新道 静かに復活の時を待つ二層屋台と大太鼓



新道連 龍山町大嶺新道

二層屋台
大工・建造時期不詳


 

白倉峡へ続く美しい渓谷白倉川を秋葉ダムから1㎞ほど入って行くと・・・



蔦が絡まった屋台小屋が・・・



昨年秋に特別に見せて頂いた新道連の屋台は、住民の減少によりここ数年曳き廻されていないという。

白木造二層屋根の屋台は飾り付ければなかなか見映えの良さそうな屋台だが、夏のお祭りにも出番のないまま屋台小屋に仕舞われている。

ダム建設や林業、峰之沢鉱山の好況で昭和30年に12,000人いた龍山町の人口は現在700人強まで激減してしまった。町の経済を支えた鉱山の廃鉱が大きな転機となり、新道地区に50世帯ほどあった住宅は現在数世帯となってしまっている。

かつては西川連、旧道連と共に三台の屋台が揃い、観光拠点秋葉ダムがある地区のお祭りとしておおいに賑わいを見せていたというのだが・・・



森の中にある津島神社は、やや神秘的な雰囲気に包まれている。



新道地区の公会堂には太鼓や提灯も未だ、出番を待っているのだが・・・

  


Posted by 天竜北遠のお祭りを応援する會 at 22:36Comments(0)天竜区龍山町

2015年07月17日

諏訪連 二俣諏訪町 諏訪神社宮本の二俣型一層唐破風大屋台





諏訪連 二俣諏訪町

二俣型一層唐破風大屋台
大工彫刻 平山安太郎
大正十年建造



宮本諏訪連の大屋台は二俣大工平山安太郎の作。

二俣らしい屋台で、唐破風の照り起りの曲線美が魅力です。

平山安太郎氏(平山安平とも)は明治三十二年に古城連大屋台を建造した平山幸太郎の流れを汲む宮大工棟梁と思われますが、残念ながら詳細は不詳。



平山大工は、昭和三年に横山町井組連大屋台、昭和十年に南がく連花屋台の建造も手掛けています。



龍山町大嶺の西川連大屋台も、破風の曲線が美しく、平山氏の作風に近い屋台なのではないかと思われます。西川連は破風の形状や漆塗の様式など明らかに二俣型一層唐破風大屋台の様式ですが、地元では「掛塚で造った屋台」という説があるそうで、詳しいことはわかっていません。

現代の屋台マニアニしてみれば平山安太郎氏は、超一級の技術を持った二俣を代表する宮大工でしたが、当時の二俣ではごく一般的な「大工の平山さん」という認識であったようで、詳しい事績が伝わっていないことが惜しまれます。




先代諏訪連大屋台は大正十年に旭連に譲渡され、昭和56年まで二俣で曳かれた後、磐田大藤五豊社を経て、現在は天竜区山東水ヶ谷連が所有しています。

こちらは二俣型一層唐破風大屋台で最も古い屋台ではないかと推測されており、細部に古典的な特徴があります。そして、二俣の屋台に影響を与えたとされる掛塚型一層唐破風本舞台とは、かなり趣の異なる二俣ならではの様式美が備わっています。



曲線基調の唐破風、二段欄間、細長い脇障子などは、掛塚型本舞台には見られない二俣型大屋台の特徴。



美しい水を湛えた二俣諏訪神社

実は、諏訪神社に隣接する池や清瀧の滝、諸堂等は全て信康山清瀧寺の所有なのですが、清らかな湧き水を湛えたこの地は、古くからの信仰の地であったようで、幻想的な空気感を漂わせています。




現在は『本田宗一郎ものづくり伝承館』となっている建物は、昭和初期に建てられた旧二俣町役場で、明治以降昭和中期まで、二俣諏訪神社周辺は二俣の政治の中心にもなっていました。

この為か、二俣町は二俣郷社椎ヶ脇神社を県社に、二俣村社諏訪神社を郷社に昇格するよう何度も県に陳情をしていました。役場に隣接して諏訪神社社務所を御造営する計画もありましたが、何れも実現しませんでした。



諏訪連は諏訪神社宮本として古い歴史を持ち、昭和三十二年に年番町制度が始まったとき、初の年番町(当時は二俣町祭典係)を務め、明治大正期には「宮本」として常に各連から一目置かれる存在でした。



諏訪神社神輿還御の際、静かに神輿の先駆を勤めてきた諏訪連大屋台がお囃子を賑やかな「馬鹿囃子」に切り替え、勇壮に諏訪神社境内へ入っていき、正対して神輿をお出迎えする。
  


Posted by 天竜北遠のお祭りを応援する會 at 12:20Comments(0)天竜区二俣町

2015年07月16日

叉水連 二俣横町 百三十年の歴史に幕





叉水連 二俣横町

浜松型重層入母屋造御殿屋台
大工 三嶽駒吉
彫刻 中山由太郎政勝
昭和十一年建造


平成二十六年の二俣諏訪神社祭典を最後に活動を休止した叉水連

戦国時代末期から安土桃山時代に二俣城の城下町として栄えた遠江国豊田郡二俣郷城下村から発展した二俣村に於いて
古町(かつての城下村)、新町、中町、車道と共に「横町」は古くから史料にその名が見られる旧町でありました。

 

寛政十年(一七九八)、京の都は「平安書林華箋堂」から上梓された『遠山奇談』は天龍川を遡り信州遠山郷へ至る紀行文でありますが、旅の始まりを椎河脇大明神から書き起し「鳥羽山を越えて、二俣宿ふじやと云ふに宿して夜を明かしぬ」と記されています。
当時の二俣川本流を横町から車道へ渡る橋はなく、大水が出れば秋葉詣での旅人は足留めとなり横町の旅籠は賑わったと云います。『遠山奇談』のふじやは、明治初期に醤油の醸造へ商いを変え、現在も老舗醤油店として営業しているのです。




当時の横町には遊郭があったと云い、女性の名が並んだお地蔵様が今も横町に祀られています。



叉水連自慢の大太鼓には明治十七年購求と墨書きされており、叉水連には少なくとも百三十年以上の歴史があることがわかっています。



明治十七年購求の大太鼓を載せていたという叉水連先代屋台は気田金川金勢社に現存



叉水連の十八番である「屋台下」は、遠州地方で最もポピュラーな曲ですが、叉水連のアレンジは独特で、この囃子を聴くために二俣諏訪神社祭典を訪れる祭りファンもいたほど・・・



然し、その演奏も・・・昨年の祭りが最後となってしまうかもしれません・・・



浜松型重層入母屋造御殿屋台の祖 三嶽駒吉 が初期に建造した屋臺は、現存する浜松型重層入母屋造御殿屋台として最古

浜松は空襲で大型の重層御殿屋台は全て消失し、戦後の再建時には二俣に残っていた叉水連の屋台を手本としたという説もあります。

浜松市にとっても貴重な屋臺ですが、今年の二俣諏訪神社祭典では見ることが出来ないようです・・・
  


Posted by 天竜北遠のお祭りを応援する會 at 12:47Comments(0)天竜区二俣町

2015年03月29日

白倉屋台囃子 白倉峡 エメラルドグリーンの滝壺 美しい紅葉と渓谷



秘境

美しい渓谷白倉峡へと続く斜面に白倉の集落はある。

白倉では大正の頃まで屋臺を曳いていたが、第一次世界大戦後の不況で龍山村の主要産業であった日本有数の銅山である峰之沢鉱山が一時閉坑となり、龍山の経済を揺さぶった。この頃、瀬尻では磐田へ屋臺を売却しているが、白倉でも同様に屋臺を手放すことになったという。屋臺は四輪の屋台であったらしい。


白倉屋台囃子は、一人で二つの小太鼓を叩くなどの特徴があり、近隣の二俣郷祭禮囃子や三社祭礼囃子とも共通点がない独自のお囃子である。屋臺売却後、一時途絶えていたが、昭和中期に復活し白倉諏訪神社祭典で奉納されている。

また、非常に美しい紅葉の名所であり、白倉峡もみじまつりの際にも白倉屋台囃子は披露されている。


白倉峡の紅葉の美しさは比類のないものであるが、渓谷の美しさは四季を通じて訪れる人々を魅了している。



エメラルドグリーンの滝壺は、特に夏場に息を呑む美しさとなるが、大小様々な幾つもの瀧が見せる渓谷の美しさというものは、本来であれば何時間も山の中を歩かなければ出逢えないような光景であるが、古来より険しい山の奥深くに人々が暮らしてきた天竜区だからこそ、新東名浜松浜北インターからクルマで約40分、舗道を5分歩けば、この世のものとは思えない美しい世界に辿り着く



美しい山に、河に、
   神が宿る
天竜区
   そこは、神仙世界の入口

天龍の屋臺
DVD『天龍の屋臺』に収録!!
  


Posted by 天竜北遠のお祭りを応援する會 at 23:16Comments(0)天竜区龍山町

2015年03月28日

南栄連花屋台 栄町 二俣川桜並木と山東多賀神社祭典




南栄連花屋台 山東栄町

一層唐破風花屋台


山東多賀神社祭典は遠州横須賀三熊野神社祭典と同じ四月第一週の日曜日に行われる。


多賀神社は二俣川沿いにあり、堤防は桜並木になっているので、開花のタイミングが合えば、桜と花屋台のコラボが見られる。



三月二十八日時点での開花状況は三分から五分咲きといったところ。



花屋台は当然乍ら八月の山東八幡神社祭典でも曳き廻される(上記YouTube動画3分23秒~)
二俣と異なり、山東地区の花屋台は一層となる。




相生連花屋台 山東相生

一層唐破風花屋台

八幡連花屋台

山王連花屋台


  


Posted by 天竜北遠のお祭りを応援する會 at 22:57Comments(0)花屋台

2015年03月21日

吾妻連 吾妻町 金箔彫刻と二段欄間 水窪営林署秘蔵の欅



吾妻連 吾妻町

二俣型一層唐破風大屋台

平成八年(1996)復刻新調
大工 早川真匠
彫刻 伊藤松次郎(彫松)


吾妻連大屋台は明治期建造で二段欄間、金箔彫刻の二俣型屋台を古城連、㡌山連同様に修復する計画が進められていたが、老朽化が激しく、彫刻は全て流用したものの屋台本体部分は全面的に新調された。
屋台の基本的な寸法は彫刻の大きさに合わせ高さ以外は踏襲し復元新調とした。


この時はまだ、東京営林局水窪営林署が存在しており、おそらく、最後の最後の秘蔵の水窪欅によって非常に美しい杢目の屋臺が完成している。

水窪の欅は良質で彫刻にも適しており評価が高かったようである。
現在の浜松市天竜区域の林業では植林された杉、檜がメインで、かつて天龍の屋臺に使われた天然欅の資源は少なくなっているようだ。


浜松御殿屋台の祖三嶽工匠四代目早川真匠氏が初めて棟梁として世に送り出した屋臺である。



吾妻連大屋台の最大の特長は、大正年間と推定される金箔彫刻と二段の欄間。



二俣型大屋台では最古ではないかと云われる先代諏訪連(旭連→大藤五豊社→水ヶ谷連)、先代叉水連(金勢社)、先代西古連(万斛西)は何れも欄間が二段。諏訪、叉水、吾妻、西古は明治前期から中期にかけて二俣諏訪神社祭典に参加。屋台の建造時期は明らかではないが、上記四連の先代屋台は「明治年間に建造」と伝わっている。

二段欄間は春野町堀之内の鷹尾連、龍勢社、有聲舎、領家の北領社、気田中栄社の先代屋台にも見られる。有聲舎以外は何れも明治前中期以前の建造と思われる屋臺である。


磐田市下万能松尾社の屋臺が先代の気田中栄社。この二層高欄四輪屋台と北領社(二層高欄二輪屋台)を含め、何故か二段欄間の屋台は二俣と春野の明治年間建造屋台に集中している(他に明治二十八年建造磐田市中泉東組も二段欄間)


また、先々代南がく連金屋台のように、江戸期建造の屋臺に金箔彫刻は散見されるが、金の価格が上昇したであろう明治以降建造の屋臺で先代流用以外の金箔彫刻は殆ど見られない。
明治から昭和中期まで吾妻町には遊郭があり、山持ちの旦那衆や高給の筏乗りらが集まり賑わった町の栄華が窺い知れる。


先代屋臺は掛塚から中古で買ってきたという説が吾妻町にはある。
然し、後方鬼板の金箔彫刻は吾妻町の郭のマークであり、金箔彫刻が吾妻連のオーダーで作製されたのは間違いない。


有名な「彫松」こと伊藤松次郎の彫刻は金箔以外の彫刻だと云われている。
先代吾妻連大屋台については、まだ詳しくわかっていない部分が多い。



先代吾妻連大屋台は、二俣の屋臺では珍しい、御簾脇障子を有していた。
また、屋臺の両脇には建具の嵌まる鴨居、敷居が存在した。
四輪屋臺としては、腰から下が低い。


こうした造りは、横町時代に四輪から二輪に改造されたという先代叉水連(金勢社)や、やはり四輪から二輪に改造されたという龍勢社や鷹尾連にも共通する。


福田福助連は、江戸時代に建造された掛塚型一層唐破風本舞台の原型のようにも思えるが、江戸期建造とされる遠州四輪屋臺は、総じて腰が低く、また建具の嵌まる鴨居、敷居が在るケースが多いようだ。

そして、上述のように吾妻町には屋臺を掛塚から買ってきたという口伝が伝わっている。先代屋台のベースとなっていたのは相当古い時代の掛塚の屋台であったということだろうか?



大正十一年の諏訪神社祭典年番記録には、吾妻連が屋台破損に付き底抜屋台(花屋台)での交際を願い出ているが、神事である神輿渡御中は底抜屋台曳き廻しは絶対に不可能であると決定している。
なお、この年は古城連も(理由は不明だが)神輿本殿に御帰還後の屋台行進(曳き別れ後)に底抜屋台での行進を申し入れ認められている。

明治後期から大正期の祭典年番記録を見ると、各連において度々屋台破損につき出動不能の記録が残っている。また、南がく連や二府連には何度も屋台が破損し大掛かりな改修工事を行っていた記録がある。

吾妻連先代屋台も、こうした破損により度々手が加えられていた可能性もある。

明治期の二俣、犬居の屋臺の謎は解明されないまま・・・その鍵を握っていた謎多き仕様の屋臺、先代吾妻連は復元新調時に解体されてしまい謎は永久に謎のままとなった。

地之巻  


Posted by 天竜北遠のお祭りを応援する會 at 18:59Comments(2)天竜区二俣町

2015年03月16日

城南連 二俣町川口 三嶽流一層唐破風大屋台 最高級の欅



城南連 二俣町川口

三嶽流一層唐破風大屋台

平成十九年(2007)新調
大工 早川真匠
彫刻 谷口英樹



城南連大屋台は三嶽四代目工匠早川真匠により建造された三嶽流一層唐破風大屋台。
早川は昭和八年建造の吾妻連大屋台に続いて二俣の屋台を手掛けた。


三嶽流、早川大工の建造する屋臺の最大の特長は、妥協することなく屋臺師自ら木曾山中に求めた欅の一本の大木を刻んで造られていることで、随所に見られる美しい杢目は比類なき物である。

二俣の屋臺は漆塗を前提としており、春慶塗で杢目を活かす柱などに最高品質の天龍欅を奢った屋臺が多いが、破風には杉や檜を用いた屋臺もあった。早川建造の屋臺は全て、見え掛かり材に厳選した欅を用いており、城南連の破風の杢目も非常に美しく、見物客の目を惹くものとなっている。


堂々と前方に大きく張り出した唐破風、腰虹梁と小壁板の間に台輪が入る等、基本的な屋臺の仕様は浜松重層御殿屋台の祖三嶽二代目三嶽駒吉建造の一層唐破風大屋台横山朝日連に準じている。




早川真匠建造の二俣吾妻連と磐田市(旧豊岡村)太郎馬た組の大屋台も同様に美しい杢目を誇っている。
自ら山中に出向いていく早川だからこそ、最高品質の欅材を手に入れることが出来るという。






早川大工建造の高丘、和田、萩丘の三嶽流重層御殿屋台


仁久連 浜北区中瀬二

二俣型一層唐破風大屋台

昭和三十年(1955)城南連建造
大工 北島俊二


城南連は昭和三十年、十四連目として最後に二俣諏訪神社祭典に参加した。
屋臺を建造したのは車道、山東八幡に住んだ最後の二俣型屋臺大工北島俊二。
二俣型大屋台の様式として、高欄(手摺り)は低く擬宝珠は前方のみとなっており、早川建造の吾妻連、太郎馬の屋臺もこれに準じているが、先代城南連は写真のように手摺りが嵩上げされており、現行の城南連大屋台も手摺りを高くし、また寺田建築建造の白糸連同様、中擬宝珠を付けている。

仁久連では、見送り幕に城南連時代に使われていた幕をそのまま使用しており、二俣にあった頃と屋臺の後ろ姿に大きな変化はない。



川口村は元々北鹿島村の分村であったと云い、二俣川が天竜川に注ぐ合流点の湊町であった。
江戸時代には阿多古住民の渡し舟の運航を請け負っていた。
江戸時代中期に二俣川の河川工事で河口は南口に変更されたが、天竜川水運の湊町としての機能は戦後まで残っていた。

横山町の屋臺は二俣の氏原塗師屋で漆が塗られ、バラした部材を川口から舟に乗せて横山へ運んだという。また、新町が金屋台を雄踏へ売却した際も、川口から中ノ町までは舟で部材を運んだようだ。


川口村は明治九年に二俣村へ合併したが、祭禮は村内の八幡神社で独自に行っていたようである。


八幡神社は諏訪神社に合祀され、昭和三十年から諏訪神社祭典に参加している。

天龍河を強くイメージした見送り幕は京美刺繍工芸の作。


前方鬼板に加え、持ち送りも龍の彫刻である。

地之巻
  


Posted by 天竜北遠のお祭りを応援する會 at 20:54Comments(0)天竜区二俣町