2015年03月16日
城南連 二俣町川口 三嶽流一層唐破風大屋台 最高級の欅
城南連 二俣町川口
三嶽流一層唐破風大屋台
平成十九年(2007)新調
大工 早川真匠
彫刻 谷口英樹
城南連大屋台は三嶽四代目工匠早川真匠により建造された三嶽流一層唐破風大屋台。
早川は昭和八年建造の吾妻連大屋台に続いて二俣の屋台を手掛けた。
三嶽流、早川大工の建造する屋臺の最大の特長は、妥協することなく屋臺師自ら木曾山中に求めた欅の一本の大木を刻んで造られていることで、随所に見られる美しい杢目は比類なき物である。
二俣の屋臺は漆塗を前提としており、春慶塗で杢目を活かす柱などに最高品質の天龍欅を奢った屋臺が多いが、破風には杉や檜を用いた屋臺もあった。早川建造の屋臺は全て、見え掛かり材に厳選した欅を用いており、城南連の破風の杢目も非常に美しく、見物客の目を惹くものとなっている。
堂々と前方に大きく張り出した唐破風、腰虹梁と小壁板の間に台輪が入る等、基本的な屋臺の仕様は浜松重層御殿屋台の祖三嶽二代目三嶽駒吉建造の一層唐破風大屋台横山朝日連に準じている。
早川真匠建造の二俣吾妻連と磐田市(旧豊岡村)太郎馬た組の大屋台も同様に美しい杢目を誇っている。
自ら山中に出向いていく早川だからこそ、最高品質の欅材を手に入れることが出来るという。
早川大工建造の高丘、和田、萩丘の三嶽流重層御殿屋台
仁久連 浜北区中瀬二区
二俣型一層唐破風大屋台
昭和三十年(1955)城南連建造
大工 北島俊二
城南連は昭和三十年、十四連目として最後に二俣諏訪神社祭典に参加した。
屋臺を建造したのは車道、山東八幡に住んだ最後の二俣型屋臺大工北島俊二。
二俣型大屋台の様式として、高欄(手摺り)は低く擬宝珠は前方のみとなっており、早川建造の吾妻連、太郎馬の屋臺もこれに準じているが、先代城南連は写真のように手摺りが嵩上げされており、現行の城南連大屋台も手摺りを高くし、また寺田建築建造の白糸連同様、中擬宝珠を付けている。
仁久連では、見送り幕に城南連時代に使われていた幕をそのまま使用しており、二俣にあった頃と屋臺の後ろ姿に大きな変化はない。
川口村は元々北鹿島村の分村であったと云い、二俣川が天竜川に注ぐ合流点の湊町であった。
江戸時代には阿多古住民の渡し舟の運航を請け負っていた。
江戸時代中期に二俣川の河川工事で河口は南口に変更されたが、天竜川水運の湊町としての機能は戦後まで残っていた。
横山町の屋臺は二俣の氏原塗師屋で漆が塗られ、バラした部材を川口から舟に乗せて横山へ運んだという。また、新町が金屋台を雄踏へ売却した際も、川口から中ノ町までは舟で部材を運んだようだ。
川口村は明治九年に二俣村へ合併したが、祭禮は村内の八幡神社で独自に行っていたようである。
八幡神社は諏訪神社に合祀され、昭和三十年から諏訪神社祭典に参加している。
天龍河を強くイメージした見送り幕は京美刺繍工芸の作。
前方鬼板に加え、持ち送りも龍の彫刻である。
DVD『諏訪神社祭典 人之巻』『諏訪神社祭典 地之巻』に収録!!
Posted by 天竜北遠のお祭りを応援する會 at 20:54│Comments(0)
│天竜区二俣町